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西湖嶽王廟導遊詞(精選17篇)

西湖嶽王廟導遊詞(精選17篇)

西湖嶽王廟導遊詞(精選17篇)

西湖嶽王廟導遊詞 篇1

“怒髮衝冠,憑欄處、瀟瀟雨歇。抬望眼,仰天長嘯……”只要提起《滿江紅》這一首詞的時候,我一下子,就會想起岳飛這名抗金名將。而這次秋遊,我們就是要去那大名鼎鼎的嶽王廟。

我們一行人首先去了玉泉,去欣賞了那兒的美麗景色,接着我們才能步行去嶽王廟。“那裏!到了到了!”有同學十分興奮地説,我抬頭一看,果然看到了那雄偉的嶽王廟,在左右兩根柱子上,刻着岳飛的詞:三十功名塵與土,八千里路雲和月。這是我背《滿江紅》時記得最牢的兩句了。

我們走到門前,跨過門檻,看見了岳飛的雕像,他右手持劍,身披鎧甲,左手握拳,一雙眼睛炯炯有神,看上去十分威武、精神,關於岳飛故事的圖像正畫在一旁的牆壁上。而我印象最深的就是岳飛年輕的時候岳母在他的背上刺下了“精忠報國”四個字,正是因為這四個字,才不斷激勵岳飛成為抗金名將。

看着看着,我的眼前不由的浮現了那黃沙滿天的戰場,岳飛率領着軍隊毫無畏懼地朝敵軍衝去,打得他們抱頭鼠竄,那英姿,令我心中湧起一股敬佩之情。

接着,我們去了岳飛墓。我站在他的墳前,挺起胸膛,在心裏向他致敬,淚水在我的眼眶打轉。岳飛,一代抗金名將,為祖國立下了漢馬功勞,最後卻被奸臣秦檜立下“莫須有”的罪名判死,實在可惡!那個可惡的秦檜的銅像就在一旁,在岳飛墓前永遠地跪着,為他的惡行付出代價!

我不禁記起了秦檜後代説得話:自古以來少名檜,我在像前愧姓秦。

西湖嶽王廟導遊詞 篇2

從西湖乘船回到岸上後,我和爺爺奶奶就去吃了午飯,然後便去了這次上海之旅的第十一站——杭州嶽王廟。

一進廟門,兩棵香樟樹首先映入我的眼簾,據説它們應經有五百多歲了,是岳飛出生入死的好夥伴。步入正殿,一尊威武的雕像就赫然顯現在我的眼前,想必他一定就是岳飛了和我想象中的一模一樣,高大威武,紫盔紫甲,身披戰袍,兩隻眼睛炯炯有神,神情威嚴,手握一柄閃閃發光的寶劍。雕像的上面還有一塊岳飛親自寫的金匾,“還我山河”四個大字寫的鏗鏘有力,在陽光的照耀下更顯得熠熠生輝,充分體現出了岳飛將軍“精忠報國”的堅定決心和氣吞山河的英雄氣概。廟的兩側還有許多壁畫,在向我們講述着岳飛和將士們抗擊金兵的故事,廟頂的天花板上,繪畫着許許多多栩栩如生的白鶴,一隻只都在展翅高飛,非常壯觀。

我們又走進了“岳飛紀念館”,紀念館裏有着關於岳飛的郵票、書籍等等,我還知道了岳飛是民族英雄,遭人誣陷遇害時年僅三十六歲,讓人為岳飛悲慘的命運而感到悲哀。紀念館的牆壁上,還有著名書法家沙孟海先生抄寫的《滿江紅》,看完後,我感覺熱血沸騰。

再往裏走,我們就來到了岳飛的墓園裏。墓園中間是岳飛墳墓,兩邊是岳飛的兒子岳雲和女婿張憲的墳墓,這兩人也為光復大宋立下了汗馬功勞,但最後也和岳飛一樣遇害於奸臣的手中。岳墳的對面有一道柵欄,裏面跪着三個壞人的雕像,一個是大奸臣秦檜,一個是心如蛇蠍的秦檜的老婆,還有一個就是臭名昭著的万俟卨,我心裏感到氣憤極了,大宋皇帝竟然那麼昏庸無道,岳飛一家對大宋立下了無數功勞,可他卻聽信奸臣秦檜的謊話,多麼令人氣憤,多麼可悲啊!

從嶽王廟裏出來,我的心情久久不能平靜,岳飛是一位偉大的英雄,我們應該世世代代敬仰他,他在我們的心裏會永垂不朽!

西湖嶽王廟導遊詞 篇3

各位遊客你們好,我是您們的導遊小吳,很榮幸為大家服務。

相信大家都聽説過岳飛了吧?他小時候家裏很窮,但他以“盡忠報國,還我河山”為一生心願。他英勇善戰,用兵有方,是宋代很厲害的抗金大將呢!可惜他被秦檜等人陷害,被皇帝以“莫須有”的罪名殺害。

現在我們就來到了嶽王廟廟門。這是一座清代風格的兩層建築,正中間有一塊龍鳳盤繞,黑底鎦金的豎匾,上面寫着“嶽王廟”。這座建築有十二根紅漆柱子,中間兩根上寫着:三十功名塵與土,八千里路雲和月。

步入山門,穿過甬道,我們來到了忠烈祠門口。走進大門,能看見岳飛坐像。他頭戴紅纓帥盔,身着紫色蟒袍,臂露金甲,足登武靴,左手握拳,右手按劍,很是威武。他昂首挺胸,凝視前方,眉宇間透着威嚴和正氣,彷彿正在思考怎樣揮師北上收復失地,救人民於水火之中。他頭頂上懸着一塊匾,上面寫着“還我河山”。往兩邊看,四周的牆上畫着岳飛的事蹟,有“岳母刺字”、“刻苦學習”、“郾城大捷”、“被迫班師”、“風波冤獄”等。現在我們抬起頭,能看見372只仙鶴。它們有的在低頭飲水,有的展翅高飛,還有的單腳站在水裏。372幅仙鶴圖,沒有那兩幅是相同的。它們象徵着岳飛高潔的品格。

走出忠烈祠,繞過精忠柏亭,就是碑廊了。碑廊的盡頭是一塊大石碑,上面刻着岳飛的詞《滿江紅》:怒髮衝冠,憑欄處,瀟瀟雨歇,抬望眼,仰天長嘯,壯懷激烈……

走出碑廊,就是岳飛墓了。墓坐西朝南,左邊是他長子岳雲的墓。墓道旁有三對石翁仲、石虎、石羊、石馬,他們是岳飛生前的儀衞。岳飛墓的對面有四座跪像,他們是千古罪人秦檜、王氏、万俟卨和張俊。

今天的遊覽到此結束,各位遊客再見。

西湖嶽王廟導遊詞 篇4

離杭州西湖不遠的地方,有一座聽不到唸經頌佛,也聽不到悠然鐘響的廟宇,它,就是嶽王廟。乘學校秋遊,我有幸去了神往已久的這處“似廟非廟”的名勝之地。

我早從書上得知,岳飛是一代抗金名將。他足智多謀,英勇善戰,率領的軍隊被稱為“岳家軍”。“岳家軍”紀律嚴明,“凍死不拆屋,餓死不擄掠”。金兵非常害怕,不得不發出“撼山易,撼‘岳家軍’難”的哀歎。後來,由於奸相秦檜的出賣,岳飛被慘遭毒手。後人為紀念這位民族英雄,就興建了這座嶽王廟,供萬眾瞻仰。

嶽王廟巍峨莊嚴,氣勢雄偉。大門正上方是金光閃閃的鎦金大字——嶽王廟。門旁有一幅“百鶴圖”,上面畫着371只鶴,只只栩栩如生,令人讚歎。二道門內便是正殿,裏面供奉着岳飛的塑像。塑像高4。54米,周圍有12根鐵欄杆圍護着。岳飛頭戴紅色帥盔,身披紫色蟒袍,一隻手緊握拳頭,另一隻手按着一把寶劍。他身材魁梧,神態莊嚴,顯現出一個久經沙場、所向披麾的將帥風度。一幅“還我河山”的金字匾額掛在岳飛塑像的上方。這雄渾剛勁的大字是岳飛的手書,充分體現了英雄岳飛“精忠報國”的宏願大志。殿兩側牆上的壁畫,記載了岳飛和將士們抗金的的事蹟,令人肅然起敬。旁邊跪着秦檜等四個國賊。他們傷天害理,勢必遭萬世唾罵。一正一邪,形成鮮明的反差。為國捐軀的英雄必然流芳百世,賣國求榮的奸賊肯定遺臭萬年。我呢?當然仰慕前者,唾棄後者。我知道,現在的求學是為了將來更好的報效祖國。國家興亡,匹夫有責。我們瞻仰嶽王廟,不就是要進一步激發愛國之心、樹立報國之志嗎?“頭可斷,血可流,民族氣節不可丟”,而這,正是我在岳飛凜然正氣的感召下所立下的誓言。

離開嶽王廟,我腦海裏一直浮現着岳飛威武的英雄形象,他將激勵着我永遠前進,永不屈服。

西湖嶽王廟導遊詞 篇5

西湖から船で岸に帰りました。おじいさんとおばあさんと晝ご飯を食べに行きました。今度の上海旅行の第11駅、杭州嶽王廟に行きました。

お寺の門に入ると、2本のクスノキの木がまず目に入りました。彼らは五百歳を過ぎたと言われています。嶽飛の命を捨てたいい仲間です。本殿に入ると、威武の彫像が突然私の目の前に現れました。彼はきっと嶽飛であると思います。想像していた通りの大きさで、武威が高く、紫兜の紫甲で、軍服を身に着けています。彫像の上には嶽飛が自ら書いた金の額があり、「山河を返せ」という四つの大きな字が力強く書かれています。太陽の光に照らされて、嶽飛將軍の「精忠報國」の確固たる決心と気迫を十分に表しています。寺の両側にはたくさんの壁畫があります。嶽飛と將兵たちが金兵に抵抗する話を話しています。頂上の天井にはたくさんの生き生きとした白鶴が描かれています。一匹は全部飛んでいます。とても壯観です。

私たちはまた「嶽飛記念館」に入りました。記念館には嶽飛に関する切手や書籍などがあります。嶽飛は民族の英雄であることも分かりました。被害を受けたのは36歳で、嶽飛の悲慘な運命を悲しみました。記念館の壁には、有名な書道家の沙孟海さんが寫した「満江紅」があります。

また中に行くと、嶽飛の墓園に來ました。墓の中は嶽飛の墓で、両側は嶽飛の息子の嶽雲と娘婿の張憲の墓で、この2人も光復のために宋に汗馬の功労を立てましたが、最後に嶽飛と同じように奸臣の手の中に殺害されました。岳墳の向こうには柵があり、中には三人の悪人の像がひざまずいています。一つは大奸臣の秦檜です。一つは心蛇蠍のような秦檜の妻です。もう一つは悪名高い萬待つことです。腹が立っています。大宋皇帝はなんと無知で、嶽飛一家は大宋に対して無數の功労を立てましたが、彼は秦檜の噓を信じています。腹が立つなんて、悲しいことだろう。

嶽王廟から出てきました。私の気持ちは長い間落ち着いていません。嶽飛は偉大な英雄です。私達は代々彼を敬うべきです。彼は私達の心の中で永遠に不滅です。

西湖嶽王廟導遊詞 篇6

各位遊客你們好,我是您們的導遊小吳,很榮幸為大家服務。

相信大家都聽説過岳飛了吧?他小時候家裏很窮,但他以“盡忠報國,還我河山”為一生心願。他英勇善戰,用兵有方,是宋代很厲害的抗金大將呢!可惜他被秦檜等人陷害,被皇帝以“莫須有”的罪名殺害。

現在我們就來到了嶽王廟廟門。這是一座清代風格的兩層建築,正中間有一塊龍鳳盤繞,黑底鎦金的豎匾,上面寫着“嶽王廟”。這座建築有十二根紅漆柱子,中間兩根上寫着:三十功名塵與土,八千里路雲和月。

步入山門,穿過甬道,我們來到了忠烈祠門口。走進大門,能看見岳飛坐像。他頭戴紅纓帥盔,身着紫色蟒袍,臂露金甲,足登武靴,左手握拳,右手按劍,很是威武。他昂首挺胸,凝視前方,眉宇間透着威嚴和正氣,彷彿正在思考怎樣揮師北上收復失地,救人民於水火之中。他頭頂上懸着一塊匾,上面寫着“還我河山”。往兩邊看,四周的牆上畫着岳飛的事蹟,有“岳母刺字”、“刻苦學習”、“郾城大捷”、“被迫班師”、“風波冤獄”等。現在我們抬起頭,能看見372只仙鶴。它們有的在低頭飲水,有的展翅高飛,還有的單腳站在水裏。372幅仙鶴圖,沒有那兩幅是相同的。它們象徵着岳飛高潔的品格。

走出忠烈祠,繞過精忠柏亭,就是碑廊了。碑廊的盡頭是一塊大石碑,上面刻着岳飛的詞《滿江紅》:怒髮衝冠,憑欄處,瀟瀟雨歇,抬望眼,仰天長嘯,壯懷激烈……

走出碑廊,就是岳飛墓了。墓坐西朝南,左邊是他長子岳雲的墓。墓道旁有三對石翁仲、石虎、石羊、石馬,他們是岳飛生前的儀衞。岳飛墓的對面有四座跪像,他們是千古罪人秦檜、王氏、万俟卨和張俊。

今天的遊覽到此結束,各位遊客再見。

西湖嶽王廟導遊詞 篇7

嶽王廟,廟址在浙江省杭州市西湖畔棲霞岑下,始建於南宋嘉定十四年(1220xx年),南宋隆興元(1163年),孝宗皇帝趙慎下詔為岳飛昭雪,將岳飛遺體從九曲從祠遷出,以“孤儀”(即一品禮)改葬於棲霞岑下。嘉定十四年,宋寧宗皇帝將岳飛墓傍的《智果觀音院》改建為功德院,即《褒忠衍福禪寺》,以表彰岳飛的功德。

元時廟廢。明洪武四年(1371年)復建,宣德間毀於火災,浙江右布政使黃敷仲重修。明英宗天順元年九月二十七日,杭州府同知馬偉等奏請為岳飛建廟,聖旨準建,天順三年(1459年),馬偉將“褒忠衍福禪寺”改建為《嶽王廟》,後毀於兵火,宏治間太監麥秀重建。正德八年(1520xx年),都指揮李隆用鑄鐵鑄制秦檜、王氏、万俟卨(莫棋謝)三跪像於岳飛墓前,由於遊人痛恨這些民族敗類,後採竟被擊毀。明嘉靖三十七年(1558年),總督御使胡宗憲修復岳廟,重鑄跪像,也被擊壞。萬曆二十二年(1594年)按察使範淶重鑄跪像,並增鑄張俊跪像,以後至清代,於順治八年(1651年),巡撫都御使範承謨,康熙二十一年(1732年)兩淮轉運使羅文瑜,康熙三十一年知府李鐸,康熙五十四年(1720xx年)總督範時崇、雍正九年(1731年)總督李衞等多次重修。現在的嶽王廟,大多是清代的建築,經民國七年(1920xx年)大修。1961年3月4日,國務院周恩來批准公佈杭州岳飛廟為全國重點文物保護單位。

1966年秋嶽墓被毀,岳廟亦破舊不堪。1979年7月,浙江省人民政府,花人工五萬六千餘,幣四十萬元,重修岳廟,重建嶽墓。一九八○年修復岳飛墓時,發現基道兩側各有石俑一具!其中一具完整,岳飛的墓穴雖未清理,但墓基四周條石已經發現,明岳飛墓穴在此。一九八一年葉劍英題詞:“國花百萬建岳廟,重在教育後人”。並書:“心昭天日”。岳飛墓碑上寫着《宋嶽鄂王墓》的字樣。左側為岳雲墓、墓碑上寫着《宋繼忠侯岳雲墓》字樣。

杭州西湖岳飛墓廟,歷代為人們瞻仰拜謁之處。南宋亡國時,有太學生徐應鑣率二子一女在岳飛墓前集體自焚,以示亡國之痛。清代一位姓秦的文士拜謁嶽墓時,因感秦檜之惡責,恥于姓秦,故聯詩曰:“人從宋後羞名檜,我到墳前愧姓秦”。現岳飛墓廟每天拜謁的國內外人士,多的到一萬多人!

西湖嶽王廟導遊詞 篇8

観光客の皆様、こんにちは、私はあなた達のガイドの呉と申します。

嶽飛さんのことはみんな聞いたことがありますよね?彼は子供の時、家が貧しかったですが、「忠義を盡くして國に報い、我が山河を返せ」と一生の願いを込めました。彼は勇敢で戦いが上手で、兵を使う方がいて、宋代のすごい抗金大將です。殘念ながら彼は秦檜などに陥れられて、皇帝に「あってはならない」という罪で殺されました。

今は嶽王廟門に來ました。これは清代風の二階建ての建物で、真ん中に龍鳳がぐるぐる回っていて、黒底の指輪金の縦額に「嶽王廟」と書いてあります。この建物には12本の朱塗りの柱があります。中二本には三十功名の塵と土、八千里路雲と月が書いてあります。山門に入り、路地を通って忠烈祠の入り口に來ました。玄関に入ると嶽飛の坐像が見える。彼は頭に赤い葉の立派な兜をつけています。紫色の大蛇の長衣を着ています。腕には金の甲が現れています。足は武靴に登り、左手には拳を握って、右手には剣を押しています。とても威武的です。彼は胸を張って前を見つめ、威厳と正気をみなぎらせ、どうやって北上して失地を回復し、人民を水の中に救うかを考えているようだった。彼は頭のてっぺんに橫額をかけていて、「還我河山」と書いています。両側を見て、周りの壁に嶽飛の事跡が描かれています。「岳母刺字」、「骨身を惜しまず勉強する」、「郾城大捷」、「強制的に班師」、「波亂冤罪獄」などがあります。今は頭を上げて、372羽の鶴が見えます。彼らは頭を下げて水を飲み、あるものは羽ばたき、あるものは片足で水の中に立っています。372枚のツルの絵は、その二つと同じものはありません。それらは嶽飛の高潔な品格を象徴しています。

忠烈祠を出て、精忠柏亭を回ったら、碑廊です。碑の廊下の果てに大きな石碑があり、その上に嶽飛の言葉が刻まれています。

碑の廊下を出ると、嶽飛の墓があります。墓は西に座って南に向かい、左に長男の嶽雲の墓があります。墓道のそばに三組の石翁仲、石虎、石羊、石馬があります。彼らは嶽飛の生前の儀衞です。嶽飛の墓の向こうには4つの跪座像があります。彼らは千古の罪人である秦檜、王氏、萬等待協と張俊です。

今日の観光はこれで終わります。観光客の皆様、さようなら。

西湖嶽王廟導遊詞 篇9

嶽王廟,廟址在浙江省杭州市西湖畔棲霞岑下,始建於南宋嘉定十四年(1220xx年),南宋隆興元(1163年),孝宗皇帝趙慎下詔為岳飛昭雪,將岳飛遺體從九曲從祠遷出,以“孤儀”(即一品禮)改葬於棲霞岑下。嘉定十四年,宋寧宗皇帝將岳飛墓傍的《智果觀音院》改建為功德院,即《褒忠衍福禪寺》,以表彰岳飛的功德。

元時廟廢。明洪武四年(1371年)復建,宣德間毀於火災,浙江右布政使黃敷仲重修。明英宗天順元年九月二十七日,杭州府同知馬偉等奏請為岳飛建廟,聖旨準建,天順三年(1459年),馬偉將“褒忠衍福禪寺”改建為《嶽王廟》,後毀於兵火,宏治間太監麥秀重建。正德八年(1520xx年),都指揮李隆用鑄鐵鑄制秦檜、王氏、万俟卨(莫棋謝)三跪像於岳飛墓前,由於遊人痛恨這些民族敗類,後採竟被擊毀。明嘉靖三十七年(1558年),總督御使胡宗憲修復岳廟,重鑄跪像,也被擊壞。萬曆二十二年(1594年)按察使範淶重鑄跪像,並增鑄張俊跪像,以後至清代,於順治八年(1651年),巡撫都御使範承謨,康熙二十一年(1732年)兩淮轉運使羅文瑜,康熙三十一年知府李鐸,康熙五十四年(1720xx年)總督範時崇、雍正九年(1731年)總督李衞等多次重修。現在的嶽王廟,大多是清代的建築,經民國七年(1920xx年)大修。1961年3月4日,國務院周恩來批准公佈杭州岳飛廟為全國重點文物保護單位。

1966年秋嶽墓被毀,岳廟亦破舊不堪。1979年7月,浙江省人民政府,花人工五萬六千餘,幣四十萬元,重修岳廟,重建嶽墓。一九八○年修復岳飛墓時,發現基道兩側各有石俑一具!其中一具完整,岳飛的墓穴雖未清理,但墓基四周條石已經發現,明岳飛墓穴在此。一九八一年葉劍英題詞:“國花百萬建岳廟,重在教育後人”。並書:“心昭天日”。岳飛墓碑上寫着《宋嶽鄂王墓》的字樣。左側為岳雲墓、墓碑上寫着《宋繼忠侯岳雲墓》字樣。

杭州西湖岳飛墓廟,歷代為人們瞻仰拜謁之處。南宋亡國時,有太學生徐應鑣率二子一女在岳飛墓前集體自焚,以示亡國之痛。清代一位姓秦的文士拜謁嶽墓時,因感秦檜之惡責,恥于姓秦,故聯詩曰:“人從宋後羞名檜,我到墳前愧姓秦”。現岳飛墓廟每天拜謁的國內外人士,多的到一萬多人!

西湖嶽王廟導遊詞 篇10

嶽王廟は浙江省杭州市西湖畔に位置し、南宋嘉定十四年に建立されました。年、南宋隆興元(1163年)、孝宗皇帝趙慎下詔を嶽飛のために冤罪し、嶽飛の遺體を九曲から祠から転出し、「孤儀」をもって棲霞岑下に葬りました。嘉定十四年、宋寧宗皇帝は嶽飛の墓のそばにある「智果観音院」を功徳院に改築しました。すなわち「褒忠誘福禪寺」で、嶽飛の功徳を表彰します。

時節廟廃墟明洪武四年(1371年)に再建され、宣徳間は火災によって破壊され、浙江右布政使黃敷仲は修復された。明英宗天順元年九月二十七日、杭州府同知馬偉等は嶽飛のために寺を建ててください。聖旨は準建屋で、天順三年(1459年)、馬偉は「褒忠誘福禪寺」を「嶽王廟」に改築し、兵火に毀損し、宏治間太監麥秀は再建します。正徳八年年)、李隆を指揮して鋳鉄で秦檜、王氏、萬等待南三を鋳造して嶽飛の墓の前にひざまずいて、遊覧客がこれらの民族の敗者を痛恨したため、後には破壊された。明嘉靖三十七年(1558年)には、総督の御使胡宗憲が嶽廟を修復し、再び像を鋳造したが、撃破された。萬暦二十二年(1594年)には範滆再鋳を観察し、張俊の跪像を増鋳し、以後清代に至り、順治八年(1651年)には、巡撫都御使範承殘、康煕二十一年(1732年)には二淮が羅文瑜を転運させ、康煕三十一年は知府李鐸、康煕五十四年(1720洱年)総督の範時崇、雍正九年(1731年)総督の李衞などは何度も修復しました。現在の嶽王廟は清の時代の建築物が多く、民國七年(1920__uu年の大修理。1961年3月4日、國務院周恩來は杭州嶽飛廟を全國重點文化財保護機構として公佈することを承認しました。

1966年に秋嶽墓が破壊され、嶽廟もぼろぼろになりました。1979年7月、浙江省人民政府は人工五萬六千餘、貨幣四十萬元を使い、嶽廟を再建しました。一九八〇年に嶽飛の墓を修復した時、基道の両側にはそれぞれ石俑がありました。その中の一つは完備されていて、嶽飛の墓穴はまだ整理されていませんが、墓石の周りの條石はすでに発見されました。明嶽飛の墓穴はここにあります。1981年葉剣英は「國花百萬丈の嶽廟を建立し、後世を教育することに重きを置く」と題している。「心昭天日」と併書する。嶽飛の墓碑には「宋嶽鄂王墓」と書いてあります。左側は嶽雲墓、墓碑には「宋継忠侯嶽雲墓」と書いてあります。

杭州の西湖嶽飛の墓廟は,歴代人々のために拝謁の場所を拝観した.南宋が國に亡くなられた時、太學生の徐さんは二人の息子と娘を連れて嶽飛の墓の前で集団自滅し、亡國の痛みを示しました。清代の秦という文士が嶽の墓に參拝した時、秦檜の悪い責任を感じて、秦という姓を恥じました。だから詩を連ねて言いました。嶽飛の墓廟を現して毎日拝謁する國內外の人士、多いのは1萬數人に着きます!

西湖嶽王廟導遊詞 篇11

「髪の毛が怒って冠を突いて、欄幹にもたれて、しとしと雨を降らせて休んでいます。目を上げて、天を仰いでうなり…」「満江紅」という言葉を持ち出した時、嶽飛という抗金名將を思い出しました。今回の秋の旅行は私達があの有名な嶽王廟に行きます。

私たち一行はまず玉泉に行きました。そこの美しい景色を見に行きました。それから、私たちは嶽王廟に歩いて行けます。「あそこ!着きました!」と興奮している學生がいました。頭を上げてみたら、やはりあの雄大な嶽王廟が見えました。左右の二本の柱に嶽飛の言葉が刻まれています。三十功名の塵と土、八千里路雲と月。これは私が『満江紅』を暗唱した時に一番しっかりした二つの文を覚えています。

私達は門の前に行って、敷居を跨ぎ、嶽飛の彫像を見ました。彼は右手に剣を持ち、鎧を身に着け、左手に拳を握っています。目がきらきらと輝いています。私が一番印象深かったのは嶽飛の若い時に岳母が彼の背中に「精忠報國」という四つの字を刺しました。この四つの字のおかげで、嶽飛が抗金名將になるように勵まし続けました。

見ていて、私の目の前に思わず黃砂の満天の戦場が浮かびました。嶽飛は軍隊を率いて恐れずに敵軍に向かって突進してきました。彼らを毆って頭を抱えて逃げました。

それから、私たちは嶽飛墓に行きました。彼のお墓の前に立って、胸を張って、心の中で彼に敬意を表します。嶽飛、金の名將に抗して、祖國のために漢馬の功労を立てて、最後に奸臣の秦の檜に“あってはならない”の罪名を立てられて死んで、本當に憎らしいです!あの憎らしい秦檜の銅像はそばにあります。嶽飛の墓の前で永遠にひざまずいて、彼の悪行のために代価を払います!

秦檜の子孫の話を思い出しました。昔から檜は少ないです。像の前で秦と申します。

西湖嶽王廟導遊詞 篇12

嶽王廟,廟址在浙江省杭州市西湖畔棲霞岑下,始建於南宋嘉定十四年(1221年),南宋隆興元(1163年),孝宗皇帝趙慎下詔為岳飛昭雪,將岳飛遺體從九曲從祠遷出,以“孤儀”(即一品禮)改葬於棲霞岑下。嘉定十四年,宋寧宗皇帝將岳飛墓傍的《智果觀音院》改建為功德院,即《褒忠衍福禪寺》,以表彰岳飛的功德。

元時廟廢。明洪武四年(1371年)復建,宣德間毀於火災,浙江右布政使黃敷仲重修。明英宗天順元年九月二十七日,杭州府同知馬偉等奏請為岳飛建廟,聖旨準建,天順三年(1459年),馬偉將“褒忠衍福禪寺”改建為《嶽王廟》,後毀於兵火,宏治間太監麥秀重建。正德八年(1513年),都指揮李隆用鑄鐵鑄制秦檜、王氏、万俟卨(莫棋謝)三跪像於岳飛墓前,由於遊人痛恨這些民族敗類,後採竟被擊毀。明嘉靖三十七年(1558年),總督御使胡宗憲修復岳廟,重鑄跪像,也被擊壞。萬曆二十二年(1594年)按察使範淶重鑄跪像,並增鑄張俊跪像,以後至清代,於順治八年(1651年),巡撫都御使範承謨,康熙二十一年(1732年)兩淮轉運使羅文瑜,康熙三十一年知府李鐸,康熙五十四年(1715年)總督範時崇、雍正九年(1731年)總督李衞等多次重修。現在的嶽王廟,大多是清代的建築,經民國七年(1918年)大修。1961年3月4日,國務院周恩來批准公佈杭州岳飛廟為全國重點文物保護單位。

1966年秋嶽墓被毀,岳廟亦破舊不堪。1979年7月,浙江省人民政府,花人工五萬六千餘,幣四十萬元,重修岳廟,重建嶽墓。一九八零年修復岳飛墓時,發現基道兩側各有石俑一具!其中一具完整,岳飛的墓穴雖未清理,但墓基四周條石已經發現,明岳飛墓穴在此。一九八一年葉劍英題詞:“國花百萬建岳廟,重在教育後人”。並書:“心昭天日”。岳飛墓碑上寫着《宋嶽鄂王墓》的字樣。左側為岳雲墓、墓碑上寫着《宋繼忠侯岳雲墓》字樣。

杭州西湖岳飛墓廟,歷代為人們瞻仰拜謁之處。南宋亡國時,有太學生徐應鑣率二子一女在岳飛墓前集體自焚,以示亡國之痛。清代一位姓秦的文士拜謁嶽墓時,因感秦檜之惡責,恥于姓秦,故聯詩曰:“人從宋後羞名檜,我到墳前愧姓秦”。現岳飛墓廟每天拜謁的國內外人士,多的到一萬多人!

西湖嶽王廟導遊詞 篇13

你們認識岳飛嗎?他小時候家裏很窮,但他以“盡忠報國,還我河山”為一生心願。他英勇善戰,用兵有方,是宋代很厲害的抗金大將呢!可惜他被秦檜等人陷害,被皇帝以“莫須有”的罪名殺害。

現在我們就來到了嶽王廟廟門。這是一座清代風格的兩層建築,正中間有一塊龍鳳盤繞,黑底鎦金的豎匾,上面寫着“嶽王廟”。這座建築有十二根紅漆柱子,中間兩根上寫着:三十功名塵與土,八千里路雲和月。

步入山門,穿過甬道,我們來到了忠烈祠門口。走進大門,能看見岳飛坐像。他頭戴紅纓帥盔,身着紫色蟒袍,臂露金甲,足登武靴,左手握拳,右手按劍,很是威武。他昂首挺胸,凝視前方,眉宇間透着威嚴和正氣,彷彿正在思考怎樣揮師北上收復失地,救人民於水火之中。他頭頂上懸着一塊匾,上面寫着“還我河山”。往兩邊看,四周的牆上畫着岳飛的事蹟,有“岳母刺字”、“刻苦學習”、“郾城大捷”、“被迫班師”、“風波冤獄”等。現在我們抬起頭,能看見372只仙鶴。它們有的在低頭飲水,有的展翅高飛,還有的單腳站在水裏。372幅仙鶴圖,沒有那兩幅是相同的。它們象徵着岳飛高潔的品格。

走出忠烈祠,繞過精忠柏亭,就是碑廊了。碑廊的盡頭是一塊大石碑,上面刻着岳飛的詞《滿江紅》:怒髮衝冠,憑欄處,瀟瀟雨歇,抬望眼,仰天長嘯,壯懷激烈……

走出碑廊,就是岳飛墓了。墓坐西朝南,左邊是他長子岳雲的墓。墓道旁有三對石翁仲、石虎、石羊、石馬,他們是岳飛生前的儀衞。岳飛墓的對面有四座跪像,他們是千古罪人秦檜、王氏、万俟卨和張俊。

今天的遊覽到此結束,各位遊客再見。

西湖嶽王廟導遊詞 篇14

各位遊客,現在我們看到這座重檐歇山頂建築就是嶽王廟的門樓。石柱上“三十功名塵與土,八千里路雲和月”的楹聯是原國防部長張愛萍題寫的,出自於岳飛的詞作《滿江紅》。

嶽王廟始建於南宋嘉定十四年(1221年),原為“智果觀音院”舊址,後改為“褒忠衍福禪寺”,明代景泰年間改稱“忠列廟”,現存建築為清朝康熙五十四年(1715年)重建。1979年進行了全面整修,歷時一年,花費人力5.6萬工,耗資40萬元人民幣。門樓右側的碑記記載了當時重修時的情況。

進入岳廟的庭院,便是長22.88米的石鋪甬道,直通忠烈祠大殿。兩側分別是東廡和西廡,東廡是祭祀烈文侯張憲的,西廡是祭祀輔文侯牛皋的,可惜都已移作它用了。張憲和牛皋都是岳飛的部將,跟隨岳飛轉戰南北,戰功卓著,但他倆先後也被秦檜所害。張憲墓在仙姑山下,牛皋墓在棲霞嶺上,它們和岳飛一樣,同為湖山增輝。

忠烈祠是嶽王廟的主體建築。重檐間懸掛着一塊“心昭天日”橫匾,説的是當年大理寺主審官何鑄等人嚴刑拷打岳飛,逼他在預擬的假供上畫押,岳飛裂裳袒背,背上刺有“盡忠報國”四個大字,深入膚理,滿腔悲憤之中,連書“天日昭昭,天日昭昭”八字,連何鑄等人也大為感動。這位偉大的民族英雄的精忠報國之心,可昭天日,萬古不朽。葉劍英元帥為此故親自改寫成這塊橫匾。

大殿正門兩側和內廊柱上,鐫刻着許多楹聯,表達了人們對愛國英雄的無比愛戴,對昏君奸佞的無限憤怒。進入約400平方米的正殿,正面看到的就是岳飛的坐像,高4.54米。只見岳飛頭戴紅纓帥盔,身着紫色蟒袍,臂露金甲,足登武靴,右手握拳,左手按劍,雙目正視,態度嚴正,英氣勃勃,鬥志昂揚,令人肅然起敬。在坐像上端,懸掛着岳飛手書“還我河山”四字橫匾,它是這位民族英雄畢生為之奮鬥的目標。此時此刻,不禁令人想起當年岳飛和他的岳家軍高吟《滿江紅》的英雄氣概。

岳飛的故事,幾乎是家喻户曉的。崇寧二年(1103年),岳飛出生於河南省湯陰縣一個普通的農家。相傳,他誕生時,恰有大鳥從房上飛鳴而過,因而取名為飛,字鵬舉。他從小在母親的訓導下,時時不忘“盡忠報國”,並在名師周侗指導下,武藝日見精通。宣和四年(1122年)從軍,因作戰勇敢,常用出奇制勝,深得名將宗澤讚賞。在長期的抗金戰鬥中,建立起一支紀律嚴明、精悍善戰的抗金隊伍——岳家軍。岳飛堅持抗戰,力圖收復失地,是符合民族利益的,但卻與宋高宗、秦檜所堅持的議和投降政策不能相容,最後被秦檜以“莫須有”罪名殺害,年僅39歲。他的長字岳雲、部將張憲同日被害於眾安橋,家屬全部流放到嶺南。

在大殿後面的牆上,繪有1981年創作的八幅大型彩色壁畫,忠實地記錄了這位民族英雄氣壯山河的一生。下面我們按照時間順序來講解一下:“勤奮學習”講的是,岳飛自幼好學,喜讀《孫子兵法》等書,愛聽歷史英雄人物故事,少年時就能拉開150多公斤的強弓。他先向陳廣習武,後跟周侗學射,練就了奮勇殺敵的本領。“岳母刺字”講的是,岳飛早年喪父,全仗母親撫育。靖康之變,金兵入侵,徽、欽二帝被俘,北宋滅亡。岳母送子參軍,臨行前,岳母為了讓岳飛牢記愛國家、愛人民,在岳飛背上刺下了“盡忠報國”四字。“收復建康”講的是,建炎三年(1129年)冬,金兵大舉南侵,岳飛率部移駐宜興。第二年春,岳飛從宜興出擊迎戰,連戰連勝,斬敵數千,繳物萬件,一舉收復建康(今南京)。“聯結河朔”講的是,岳飛善於團結抗金力量。紹興二年(1132年),制定了聯結河朔忠義民兵共同抗金的方針,各路民兵先後投歸,成了岳家軍的骨幹和主體,在抗金戰場上發揮了重要作用。

“還我河山”講的是,紹興三年(1133年),岳飛任江南西路舒蘄州制置使,從臨安返江州(今江西九江)途中,登高遠眺,北望故土,激情滿懷,無限感慨,寫下了“還我河山”四字,抒發了驅逐金兵、收復失地的壯志。“郾城大捷”講的是,紹興十年(1140年)七月,金兀朮調集精兵,向郾城作殊死進攻。岳飛出城迎戰,全軍將士手持刀斧,衝入敵陣,上斬敵首,下砍馬足,金兵大敗,狼狽潰逃,岳家軍乘勝追擊,先鋒部隊直達朱仙鎮,距汴京22.5公里。岳家軍凱旋,百姓敲鑼打鼓歡慶祝捷。“被迫班師”講的是,紹興十年(1140年),岳飛北伐取得重大勝利,高宗趙構苟安乞和,與秦檜共同策劃,一日內連下12道金牌,岳飛扼腕而泣,仰首悲歎“十年之功,毀於一旦”,被迫班師。歸途中,中原父老遮道慟哭,訴苦攔師。“風波冤獄”講的是,高宗、秦檜在加緊乞和的同時,陰謀陷害岳飛。他們收買叛徒,製造“謀反”證據,以“莫須有”之罪,誣陷岳飛下獄。紹興十一年(1141年)一月二十七,岳飛被害於臨安大理寺獄中的風波亭,釀成了千古奇冤。

最後請大家看一下大殿頂上的天花板,繪有“百鶴圖”。這300餘隻姿態不同的白鶴,飛翔於蒼松翠柏之中,象徵着岳飛的浩然正氣和堅貞的性格。

各位遊客,現在大家看到的是“精忠柏亭”。這看上雲僅剩半個的亭子,民間有喻意南宋只有半壁江山之説。亭內陳列八段柏樹的化石,據傳是生長在風波亭畔的一株大柏樹。岳飛在風波亭被害後,這株柏樹也跟着枯萎,變為化石,僵而不倒達600餘年。後人把這些化石懼起來,建亭陳列,讓它永遠陪伴着岳飛的忠魂。其實,這幾段化石並不是南宋古柏,是一種松柏科植物的化石,其年齡要比南宋古柏大得多,約在1.2億年以上,古生物學上稱為“硅化木”。

細心的朋友還會發現,柏樹化石都沒有樹皮,顯得十分光滑。這還留有一段傳説呢!當年太平天國反抗腐敗的清朝政府,攻入抗州後,不少士兵突然生起病來,由於請醫無效,很快傳染到全軍。忠王李秀成十分着急,但又苦思無計,不覺伏案昏昏睡去。在蒙朧中,一陣陰風過後,只見案前站着一位頭戴金盔、身穿白袍的威武將軍,只説了“若要兵將身痊癒,請上風波取樹皮”兩句話,用力一推,李秀成驚醒過來。他立即派人往風波亭取來樹皮熬藥,眾將士喝了以後果然藥到病除。不久,清軍也得了同樣的病,爭先恐後地取來樹皮熬藥,結果當然是越喝病越重了。所以,老百姓高興地説:“是嶽老爺又顯聖了”。這些都反映了人們對岳飛的仰慕之心和懷念之情。

在岳飛墓前甬道的南北兩廊,共陳列了碑石125方。北廊是岳飛手書的墨跡刻石、奏摺、表章等,最為著名的是《滿江紅》詞和岳飛錄寫的前後《出師表》等。南廊為歷代名人憑弔岳飛詩詞和岳廟歷次重修的歷史文獻。其中明代書畫家文徵明的《滿江紅》詞,尖鋭地指出高宗是謀殺岳飛的主謀人。院落東面照壁上,有“精忠報國”四個硃紅大字,是明人洪珠所書。請注意這個國字恰恰少了一點,是當時南宋國土尚不完整,所以洪珠才故意漏寫了這一點。穿過院落,就是岳飛墓闕,前面的小拱橋叫“精忠橋”,橋側一小井,名“忠泉”。進入門樓,便來到了全國重點文物保護單位——岳飛墓。

岳飛被害後,大理寺有個名叫隗順的獄卒,出於義憤,冒死偷出岳飛的遺體,埋葬於錢塘門外九曲叢祠旁(今杭州昭慶寺附近),又用玉環為陪殉,墓前種了兩株枯樹,立一塊“賈宜人墓”碑,既作為標誌,又用以遮人耳目。後來宋孝宗下詔恢復岳飛官職,並以禮改葬岳飛遺骸於現址,時距岳飛被害之日已21年了。那時,隗順早已不在人世,但他臨死前把營葬岳飛經過和葬地詳細告訴兒子。因此,人們才準確無誤地找到這位含冤屈死的英雄的遺骸。

現在這座古樸的墓闕是1979年整修時按南宋格設計的。岳飛墓坐西朝東,墓上封土圓形,用條石砌磚圈,泥頂上青草離離。墓前有石欄圍護,墓碑上書“宋嶽鄂王墓”五字。鄂王是宋寧宗於嘉泰四年(1204年)岳飛被害63年後追封的。左側為岳雲的墓,墓碑上書“宋繼忠侯岳雲墓”七字。“繼忠侯”是宋寧宗於嘉定四年(1211年)追封的,恰逢岳雲被害70週年。

墓道兩旁陳列三對明代石刻翁仲和兩組犧牲(馬、羊、虎)。這是源於《周禮》一書,説是要驅趕一種名叫“方良”的動物,唯有種柏樹和塑老虎才能達到目的。到了秦代,有一位將軍阮翁仲,打仗所向無敵,人們為藉助他的勇猛用以守衞墓地,所以墓地才有石翁仲和犧牲。民間還有一種説法:馬、羊、虎、狗分別代表忠、孝、節、義,岳飛墓前缺少狗(義),是因為他曾鎮壓過農民起義。其實,從封建等級制度來看,宋代有過規定,三品以上官員墳前只能有石人、石虎、石羊、石望柱各一對。現在的石望柱是最近重修的,上面刻有古人的名聯“正邪自古同冰炭,譭譽於今判偽真”,由著名書法家沙孟海先生重書。整個墓園古柏森森,氣象肅穆,令人肅然起敬。

各位遊客,請回頭年看墓闕下門洞兩側鐵柵欄內,面對嶽墓、反剪雙手跪着的便是遭萬代唾罵的秦檜、王氏、万俟卨、張俊四個奸賊的鑄鐵像。自明正德八年(1513年)以來,已經歷過八次補毀、九次重鑄。四奸人中秦檜是宋高宗的宰相,謀害岳飛的主兇。王氏是秦檜的妻子,傳説在秦檜苦於找不到證據,不敢貿然下毒手,猶豫不決、危坐終日之際,惡毒的王氏想出了“莫須有”罪名,並慫恿説“縛虎容易縱虎難”,促使秦檜最終下決心殺害岳飛。万俟卨、是南宋大理寺的主持,他秉承秦檜意圖,用嚴刑逼供、編造假供詞等手段,製造了千古奇冤。而張俊雖是南宋將領,出於私人的利益,為了誣陷岳飛,故意誘使岳飛部將作偽證,終於使岳飛身陷囹圄。這四個奸臣的滔天罪行,激起了老百姓的切齒痛恨,遭到了歷代人民的唾棄,他們被釘在歷史的恥辱柱上,長跪在民族英雄岳飛墓前,真是遺臭萬年了。就像墓闕門框上寫的那樣:“青山有幸埋忠骨,白鐵無辜鑄佞臣。”這副非隸非篆、出自陸維釗先生手筆的楹聯,道出了百姓們愛憎分明的心聲。

各位遊客,參觀了岳廟和嶽墓後,或許會給大家留下幾許惆悵,幾分思索,或許您還沉浸在滿腔悲憤之中。

隨着時間的推移,這個歷史的悲劇已離我們遠去。但是,岳飛抗金救國的功績是永存的,尤其是岳飛的愛國主義精神將千秋萬代留傳下去,也將永遠激勵我們各們朋友投身於偉大祖國的社會主義建設事業之中。

西湖嶽王廟導遊詞 篇15

各位遊客你們好,我姓吳,很榮幸為大家服務。

你們認識岳飛嗎?他小時候家裏很窮,但他以“盡忠報國,還我河山”為一生心願。他英勇善戰,用兵有方,是宋代很厲害的抗金大將呢!可惜他被秦檜等人陷害,被皇帝以“莫須有”的罪名殺害。

現在我們就來到了嶽王廟廟門。這是一座清代風格的兩層建築,正中間有一塊龍鳳盤繞,黑底鎦金的豎匾,上面寫着“嶽王廟”。這座建築有十二根紅漆柱子,中間兩根上寫着:三十功名塵與土,八千里路雲和月。

步入山門,穿過甬道,我們來到了忠烈祠門口。走進大門,能看見岳飛坐像。他頭戴紅纓帥盔,身着紫色蟒袍,臂露金甲,足登武靴,左手握拳,右手按劍,很是威武。他昂首挺胸,凝視前方,眉宇間透着威嚴和正氣,彷彿正在思考怎樣揮師北上收復失地,救人民於水火之中。他頭頂上懸着一塊匾,上面寫着“還我河山”。往兩邊看,四周的牆上畫着岳飛的事蹟,有“岳母刺字”、“刻苦學習”、“郾城大捷”、“被迫班師”、“風波冤獄”等。現在我們抬起頭,能看見372只仙鶴。它們有的在低頭飲水,有的展翅高飛,還有的單腳站在水裏。372幅仙鶴圖,沒有那兩幅是相同的。它們象徵着岳飛高潔的品格。

走出忠烈祠,繞過精忠柏亭,就是碑廊了。碑廊的盡頭是一塊大石碑,上面刻着岳飛的詞《滿江紅》:怒髮衝冠,憑欄處,瀟瀟雨歇,抬望眼,仰天長嘯,壯懷激烈……

走出碑廊,就是岳飛墓了。墓坐西朝南,左邊是他長子岳雲的墓。墓道旁有三對石翁仲、石虎、石羊、石馬,他們是岳飛生前的儀衞。岳飛墓的對面有四座跪像,他們是千古罪人秦檜、王氏、万俟卨和張俊。

今天的遊覽到此結束,各位遊客再見。

西湖嶽王廟導遊詞 篇16

杭州西湖から遠くないところに、お経を唱えて仏を唱えたり、悠然と鐘を鳴らすお寺がありません。それは嶽王廟です。學校の秋のピクニックに乗って、憧れの地に行きました。

早く本から嶽飛は抗金の名將だと分かりました。彼は知謀にたけていて、勇敢でよく戦い、率いる軍隊を「岳家軍」と呼んでいます。「岳家軍」の規律は厳しく、「凍死して家を解體せず、餓死して略奪しない」。金兵は非常に恐れ、「山易を揺るがし、『岳家軍』を動かすのは難しい」と歎かざるを得なかった。その後、秦檜の裏切りにあって、嶽飛はひどい目に遭いました。後代の人はこの民族の英雄を記念するために,この嶽王廟を建設し,萬人の敬慕に供する.

嶽王廟は雄大で荘厳で,気勢が雄大である。大門の真上には金色に輝く指輪金の大きな字、嶽王廟があります。門のそばには「百鶴図」があります。上には371羽の鶴が描かれています。生き生きとしているだけで、感心させられます。二道門內は本堂で、嶽飛の像が祀られています。塑像の高さ4。54メートル、周りに12本の鉄柵があります。嶽飛は頭に赤い立派な兜を被り、紫色の大蛇の長衣を身にまとい、片手で握りこぶしを握りしめ、もう一方の手で寶剣を押しています。彼は體が大きくて、厳粛な表情をしています。長い間砂場を経て、支配者に向かっている將帥の姿が見えます。「還我河山」という金の額が嶽飛の塑像の上に掛けられています。この雄渾で力強い大字は嶽飛の手書きであり、英雄嶽飛の「精忠報國」の大志を十分に體現している。殿の両側の壁の壁畫には、嶽飛と將兵たちの抗金の事跡が記されていて、粛然としています。傍らには秦檜など4人の國賊がひざまずいている。彼らは天理を亂すと,必ず萬世から唾を浴びせられる。一正一邪で,鮮明なコントラストをなしている。國のために身を犠牲にした英雄は必ず名を殘す。國を売って栄耀を求める奸賊は永遠に悪名を殘すに違いない。私は?もちろん前者を慕い、後者を唾棄する。私は知っています。今の勉強は將來のためにもっといい國のためになると思います。國家の興亡は一人の夫にも責任がある。嶽王廟を拝見するのは、愛國心を一層刺激し、報國の志を樹立することではないでしょうか?「頭は切れるが、血は流れるが、民族の気風は失われてはいけない」という、嶽飛の凜とした呼びかけのもとに立てられた誓いです。

嶽王廟を離れて、嶽飛の威武的な英雄像が頭に浮かんでいます。彼は私を永遠に前進させ、屈服させません。

西湖嶽王廟導遊詞 篇17

各位遊客,現在我們看到這座重檐歇山頂建築就是嶽王廟的門樓。石柱上“三十功名塵與土,八千里路雲和月”的楹聯是原國防部長張愛萍題寫的,出自於岳飛的詞作《滿江紅》。

嶽王廟始建於南宋嘉定十四年(1220xx年),原為“智果觀音院”舊址,後改為“褒忠衍福禪寺”,明代景泰年間改稱“忠列廟”,現存建築為清朝康熙五十四年(1720xx年)重建。1979年進行了全面整修,歷時一年,花費人力5.6萬工,耗資40萬元人民幣。門樓右側的碑記記載了當時重修時的情況。

進入岳廟的庭院,便是長22.88米的石鋪甬道,直通忠烈祠大殿。兩側分別是東廡和西廡,東廡是祭祀烈文侯張憲的,西廡是祭祀輔文侯牛皋的,可惜都已移作它用了。張憲和牛皋都是岳飛的部將,跟隨岳飛轉戰南北,戰功卓著,但他倆先後也被秦檜所害。張憲墓在仙姑山下,牛皋墓在棲霞嶺上,它們和岳飛一樣,同為湖山增輝。

忠烈祠是嶽王廟的主體建築。重檐間懸掛着一塊“心昭天日”橫匾,説的是當年大理寺主審官何鑄等人嚴刑拷打岳飛,逼他在預擬的假供上畫押,岳飛裂裳袒背,背上刺有“盡忠報國”四個大字,深入膚理,滿腔悲憤之中,連書“天日昭昭,天日昭昭”八字,連何鑄等人也大為感動。這位偉大的民族英雄的精忠報國之心,可昭天日,萬古不朽。葉劍英元帥為此故親自改寫成這塊橫匾。

大殿正門兩側和內廊柱上,鐫刻着許多楹聯,表達了人們對愛國英雄的無比愛戴,對昏君奸佞的無限憤怒。進入約400平方米的正殿,正面看到的就是岳飛的坐像,高4.54米。只見岳飛頭戴紅纓帥盔,身着紫色蟒袍,臂露金甲,足登武靴,右手握拳,左手按劍,雙目正視,態度嚴正,英氣勃勃,鬥志昂揚,令人肅然起敬。在坐像上端,懸掛着岳飛手書“還我河山”四字橫匾,它是這位民族英雄畢生為之奮鬥的目標。此時此刻,不禁令人想起當年岳飛和他的岳家軍高吟《滿江紅》的英雄氣概。

岳飛的故事,幾乎是家喻户曉的。崇寧二年(1120xx年),岳飛出生於河南省湯陰縣一個普通的農家。相傳,他誕生時,恰有大鳥從房上飛鳴而過,因而取名為飛,字鵬舉。他從小在母親的訓導下,時時不忘“盡忠報國”,並在名師周侗指導下,武藝日見精通。宣和四年(1120xx年)從軍,因作戰勇敢,常用出奇制勝,深得名將宗澤讚賞。在長期的抗金戰鬥中,建立起一支紀律嚴明、精悍善戰的抗金隊伍——岳家軍。岳飛堅持抗戰,力圖收復失地,是符合民族利益的,但卻與宋高宗、秦檜所堅持的議和投降政策不能相容,最後被秦檜以“莫須有”罪名殺害,年僅39歲。他的長字岳雲、部將張憲同日被害於眾安橋,家屬全部流放到嶺南。

在大殿後面的牆上,繪有1981年創作的八幅大型彩色壁畫,忠實地記錄了這位民族英雄氣壯山河的一生。下面我們按照時間順序來講解一下:“勤奮學習”講的是,岳飛自幼好學,喜讀《孫子兵法》等書,愛聽歷史英雄人物故事,少年時就能拉開150多公斤的強弓。他先向陳廣習武,後跟周侗學射,練就了奮勇殺敵的本領。“岳母刺字”講的是,岳飛早年喪父,全仗母親撫育。靖康之變,金兵入侵,徽、欽二帝被俘,北宋滅亡。岳母送子參軍,臨行前,岳母為了讓岳飛牢記愛國家、愛人民,在岳飛背上刺下了“盡忠報國”四字。“收復建康”講的是,建炎三年(1120xx年)冬,金兵大舉南侵,岳飛率部移駐宜興。第二年春,岳飛從宜興出擊迎戰,連戰連勝,斬敵數千,繳物萬件,一舉收復建康(今南京)。“聯結河朔”講的是,岳飛善於團結抗金力量。紹興二年(1132年),制定了聯結河朔忠義民兵共同抗金的方針,各路民兵先後投歸,成了岳家軍的骨幹和主體,在抗金戰場上發揮了重要作用。

“還我河山”講的是,紹興三年(1133年),岳飛任江南西路舒蘄州制置使,從臨安返江州(今江西九江)途中,登高遠眺,北望故土,激情滿懷,無限感慨,寫下了“還我河山”四字,抒發了驅逐金兵、收復失地的壯志。“郾城大捷”講的是,紹興十年(1140年)七月,金兀朮調集精兵,向郾城作殊死進攻。岳飛出城迎戰,全軍將士手持刀斧,衝入敵陣,上斬敵首,下砍馬足,金兵大敗,狼狽潰逃,岳家軍乘勝追擊,先鋒部隊直達朱仙鎮,距汴京22.5公里。岳家軍凱旋,百姓敲鑼打鼓歡慶祝捷。“被迫班師”講的是,紹興十年(1140年),岳飛北伐取得重大勝利,高宗趙構苟安乞和,與秦檜共同策劃,一日內連下12道金牌,岳飛扼腕而泣,仰首悲歎“十年之功,毀於一旦”,被迫班師。歸途中,中原父老遮道慟哭,訴苦攔師。“風波冤獄”講的是,高宗、秦檜在加緊乞和的同時,陰謀陷害岳飛。他們收買叛徒,製造“謀反”證據,以“莫須有”之罪,誣陷岳飛下獄。紹興十一年(1141年)一月二十七,岳飛被害於臨安大理寺獄中的風波亭,釀成了千古奇冤。

最後請大家看一下大殿頂上的天花板,繪有“百鶴圖”。這300餘隻姿態不同的白鶴,飛翔於蒼松翠柏之中,象徵着岳飛的浩然正氣和堅貞的性格。

各位遊客,現在大家看到的是“精忠柏亭”。這看上雲僅剩半個的亭子,民間有喻意南宋只有半壁江山之説。亭內陳列八段柏樹的化石,據傳是生長在風波亭畔的一株大柏樹。岳飛在風波亭被害後,這株柏樹也跟着枯萎,變為化石,僵而不倒達600餘年。後人把這些化石懼起來,建亭陳列,讓它永遠陪伴着岳飛的忠魂。其實,這幾段化石並不是南宋古柏,是一種松柏科植物的化石,其年齡要比南宋古柏大得多,約在1.2億年以上,古生物學上稱為“硅化木”。

細心的朋友還會發現,柏樹化石都沒有樹皮,顯得十分光滑。這還留有一段傳説呢!當年太平天國反抗腐敗的清朝政府,攻入抗州後,不少士兵突然生起病來,由於請醫無效,很快傳染到全軍。忠王李秀成十分着急,但又苦思無計,不覺伏案昏昏睡去。在蒙朧中,一陣陰風過後,只見案前站着一位頭戴金盔、身穿白袍的威武將軍,只説了“若要兵將身痊癒,請上風波取樹皮”兩句話,用力一推,李秀成驚醒過來。他立即派人往風波亭取來樹皮熬藥,眾將士喝了以後果然藥到病除。不久,清軍也得了同樣的病,爭先恐後地取來樹皮熬藥,結果當然是越喝病越重了。所以,老百姓高興地説:“是嶽老爺又顯聖了”。這些都反映了人們對岳飛的仰慕之心和懷念之情。

在岳飛墓前甬道的南北兩廊,共陳列了碑石125方。北廊是岳飛手書的墨跡刻石、奏摺、表章等,最為著名的是《滿江紅》詞和岳飛錄寫的前後《出師表》等。南廊為歷代名人憑弔岳飛詩詞和岳廟歷次重修的歷史文獻。其中明代書畫家文徵明的《滿江紅》詞,尖鋭地指出高宗是謀殺岳飛的主謀人。院落東面照壁上,有“精忠報國”四個硃紅大字,是明人洪珠所書。請注意這個國字恰恰少了一點,是當時南宋國土尚不完整,所以洪珠才故意漏寫了這一點。穿過院落,就是岳飛墓闕,前面的小拱橋叫“精忠橋”,橋側一小井,名“忠泉”。進入門樓,便來到了全國重點文物保護單位——岳飛墓。

岳飛被害後,大理寺有個名叫隗順的獄卒,出於義憤,冒死偷出岳飛的遺體,埋葬於錢塘門外九曲叢祠旁(今杭州昭慶寺附近),又用玉環為陪殉,墓前種了兩株枯樹,立一塊“賈宜人墓”碑,既作為標誌,又用以遮人耳目。後來宋孝宗下詔恢復岳飛官職,並以禮改葬岳飛遺骸於現址,時距岳飛被害之日已20xx年了。那時,隗順早已不在人世,但他臨死前把營葬岳飛經過和葬地詳細告訴兒子。因此,人們才準確無誤地找到這位含冤屈死的英雄的遺骸。

現在這座古樸的墓闕是1979年整修時按南宋格設計的。岳飛墓坐西朝東,墓上封土圓形,用條石砌磚圈,泥頂上青草離離。墓前有石欄圍護,墓碑上書“宋嶽鄂王墓”五字。鄂王是宋寧宗於嘉泰四年(1220xx年)岳飛被害63年後追封的。左側為岳雲的墓,墓碑上書“宋繼忠侯岳雲墓”七字。“繼忠侯”是宋寧宗於嘉定四年(1220xx年)追封的,恰逢岳雲被害70週年。

墓道兩旁陳列三對明代石刻翁仲和兩組犧牲(馬、羊、虎)。這是源於《周禮》一書,説是要驅趕一種名叫“方良”的動物,唯有種柏樹和塑老虎才能達到目的。到了秦代,有一位將軍阮翁仲,打仗所向無敵,人們為藉助他的勇猛用以守衞墓地,所以墓地才有石翁仲和犧牲。民間還有一種説法:馬、羊、虎、狗分別代表忠、孝、節、義,岳飛墓前缺少狗(義),是因為他曾鎮壓過農民起義。其實,從封建等級制度來看,宋代有過規定,三品以上官員墳前只能有石人、石虎、石羊、石望柱各一對。現在的石望柱是最近重修的,上面刻有古人的名聯“正邪自古同冰炭,譭譽於今判偽真”,由著名書法家沙孟海先生重書。整個墓園古柏森森,氣象肅穆,令人肅然起敬。

各位遊客,請回頭年看墓闕下門洞兩側鐵柵欄內,面對嶽墓、反剪雙手跪着的便是遭萬代唾罵的秦檜、王氏、万俟卨、張俊四個奸賊的鑄鐵像。自明正德八年(1520xx年)以來,已經歷過八次補毀、九次重鑄。四奸人中秦檜是宋高宗的宰相,謀害岳飛的主兇。王氏是秦檜的妻子,傳説在秦檜苦於找不到證據,不敢貿然下毒手,猶豫不決、危坐終日之際,惡毒的王氏想出了“莫須有”罪名,並慫恿説“縛虎容易縱虎難”,促使秦檜最終下決心殺害岳飛。万俟卨、是南宋大理寺的主持,他秉承秦檜意圖,用嚴刑逼供、編造假供詞等手段,製造了千古奇冤。而張俊雖是南宋將領,出於私人的利益,為了誣陷岳飛,故意誘使岳飛部將作偽證,終於使岳飛身陷囹圄。這四個奸臣的滔天罪行,激起了老百姓的切齒痛恨,遭到了歷代人民的唾棄,他們被釘在歷史的恥辱柱上,長跪在民族英雄岳飛墓前,真是遺臭萬年了。就像墓闕門框上寫的那樣:“青山有幸埋忠骨,白鐵無辜鑄佞臣。”這副非隸非篆、出自陸維釗先生手筆的楹聯,道出了百姓們愛憎分明的心聲。

各位遊客,參觀了岳廟和嶽墓後,或許會給大家留下幾許惆悵,幾分思索,或許您還沉浸在滿腔悲憤之中。

隨着時間的推移,這個歷史的悲劇已離我們遠去。但是,岳飛抗金救國的功績是永存的,尤其是岳飛的愛國主義精神將千秋萬代留傳下去,也將永遠激勵我們各們朋友投身於偉大祖國的社會主義建設事業之中。

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